国史跡  高屋敷館遺跡

• 平成13年1月29日指定

• 国道7号バイパスを迂回して保存した古代環壕集落

• 平安時代後期(11世紀ころ)に構築

• 深さ3mの環壕が土塁と共に約200mにわたって巡り、内部に多数の建物がある。

• 中世の「館(たち)」のルーツか?

青森市資料による

土塁と壕跡

高屋敷館遺跡(北側から)


高屋敷館遺跡の調査(空中写真)

高屋敷館遺跡の壕と土塁(南側)

高屋敷館遺跡の壕と土塁(北側)

高屋敷館遺跡の遺物と橋脚

高屋敷館遺跡の金属器・木製品・鍛冶道具

高屋敷館遺跡の史跡指定地と7号バイパス


観光協会お薦め  浪岡地区館跡  見学コース

• 青森県教育委員会で1982年刊行した「青森県の中世城館」では、

   浪岡地区内の中世城館として浪岡城を含む11か所を記載

• 発掘調査が入ったものは、浪岡城を除き、源常館と川原館(川原御所)の2か所

 

中世の館➡浪岡城➡王余魚沢館➡源常館➡吉内館・北畠古城➡本郷館➡川原御所➡中世の館

•その他の館跡 銀館➡大釈迦館

王余魚沢館

別名 軽井沢館

・形態 平城
・歴史 詳細不明。館主は軽井源左衛門尉で、
    浪岡北畠氏の家臣であった。
・説明 王余魚沢館は現在の稲荷神社境内と

    されているが、遺構もなくはっきり

    したことはわからない。
・城主 軽井源左衛門尉


源常館(げんじょうだて)

・形態 平山城

・歴史 詳細不明。通説では、南北朝末期浪岡に

    入部した北畠氏によって築かれ浪岡城築城

    まで居住したと伝えられている。

    以後は、支城として一族が居住し、

    南部氏代官浅瀬石千徳の抑えにあたって

    いたという。

・説明 丘陵続きを堀で断ち切って構築された

    シンプルな連郭式縄張り。

    主郭と思われる平場は、東西160m

    南北130m


吉内館・北畠古城跡

・形態 平城

・歴史 北畠氏が最初に吉内に入部したと伝わる。

    伝北畠墓所は、吉内から天皇行幸時移設

    したもの。

・説明 北畠館は、稲荷神社の北東に存在したと

    いわれるが、30年前までは空堀土塁跡が

    明確にあったと云われている。

    神社北側の段差が館跡の名残かもしれな

    い。吉内館は吉内集落の500m北東に

    あったといわれ、積みなおした五輪塔

    が残っている。


本郷館

・別名 葦町館

・形態 平城

・歴史 築城時期、築城主体共に不明。館主は、

    浪岡北畠氏被官本宮源内あるいは吉町

    弥右衛門とも伝わる。

・説明 単郭の平城で、規模は80m四方ほど南側は

    本郷川を自然の堀に、西・北側は段丘崖と

    堀で区画されていたと推測されている。

・城主 本宮氏若しくは吉町氏


川原館(川原御所)

・別名 川原御所

・形態 平城

歴史浪岡城主・北畠氏の一族の居館である。

川原浪岡氏は、北畠顕家の弟である北畠顕信の子・守親を始祖とされる。しかし、守親の子である親能の時期に断絶している。戦国時代に入ると、浪岡北畠氏の総領・北畠具永の命により、名跡を具永の庶子・具信に跡を継がせ、川原浪岡氏を再興さ

せた。

 

川原館は東館と西館の二つの館によって構成されていた。東館は東西約500m×南北約200mの規模であり、周囲に水堀と土塁を廻らせていた。西館は東館の西側に堀を隔てて位置していた。規模は東館とほぼ同じで東西約500m×南北約180mであった。現在は石碑が残るのみであり、周囲は宅地化されて遺構はほとんど残っておらず、当時の状況を窺い知る事は困難である。わずかに水路が往時の堀跡を推測させる。

 

 

 


銀館

別名 杉銀館・尾林館

形態 平山城

歴史 詳細不明

城主 家臣 由町弥右衛門?

 

大釈迦館

形態 平城

歴史 詳細不明

城主 家臣 奥井万助


観光協会お薦め  秋の観光コース

あぴねす(無料レンタル自転車) ➡➡ 緑道公園 ➡ 玄徳寺 ➡ 中世の館(資料館・旧坪田家住宅) ➡ 浪岡八幡宮 ➡ 浪岡城址 ➡ 美人川公園 ➡ 源常林の大銀杏 ➡ 金光上人の墓所 ➡ 伝北畠氏墓所(所要時間2時間半) ➡ あぴねす


国指定史跡 浪岡城

浪岡城は津軽平野の中央北部、浪岡川と正平津川が合流する北岸の微高地(比高10m)に築かれた平城で、南側の浪岡川・正平津川の氾濫原を自然の濠とした 大規模な城館です。

 

城の規模は東西1000m×南北300mほど、内部は堀で区画された新館・東館・猿楽館・北館・北外郭・内館・西館・検校館の8郭から なります。規模は主郭に想定される内館が東西120m×南北80m、北館が東西200m×南北100m、西館が東西200m×南北80m、東館が東西100m×南北60mほど、どの郭も規模の大きい大型郭になっています。

 

城縄張りは内館の西・北・東側を西館・北館・猿楽館がカバーし、さらに外側を検校 館・北外郭・東館がカバーする構造になっていて、特に北側を意識した防御構造になっています。浪岡城の最大の特徴は北館の周囲と内館の北側に構築された規 模の大きい二重堀で、二重堀間の土塁道は横矢掛けの導線として利用されていました。また北館・西館間の二重堀からは水量調節用と思われる水門が確認されて おり、往時 堀は水濠だったようです。

 

現在、城址は史跡公園として整備され、遺構は良好な状態で確認でき、また北館では発掘調査で確認された遺構が表現されています。同地は津軽から外ヶ浜に繋がる津軽坂・大豆坂越えの要地に位置しており、津軽の玄関口にあたります。北東北には規模の大きい多館式の平城・丘城が広く偏在していますが、浪岡城はその中でも規模は大きく、また単純な構造ですがレアなパーツが使用された見どころの多い城館です。